酒蔵インタビュー

それぞれのこだわりと特徴を持つ東美濃の酒蔵。
たゆまぬ探求、厳しい寒さの中で醸すそれぞれの味わいは、
蔵人たちの隠しきれない人柄と情熱が滲み出ています。

※ 現在、追加取材中のため取材が終わり次第随時アップロードいたします。

#01

 自分ごととして考えるパワーが、
 城下町を輝かせる。

岩村醸造 株式会社

渡會 充晃  さん

城下町の空は、意外にぽっかりと広かった。通りには古い建物がみっちりと軒を並べているのに、なぜだろう。

恵那市岩村町で7代続く岩村醸造の当主、渡會充晃さんは、まちのことに詳しい。
「昔は、この狭い場所に電柱や電線がすごくてね。でも、地中化するには予算が必要だから、国に働きかけようと何度もみんなで会議を重ねましたよ」。

その結果、平成10年に岩村町の城下町は文化庁の重要伝統的建造物群保存地区に選定。まちは念願の電柱地中化を叶えた。工事は家屋内にも欠かせない。住民の理解と協力があって、いまや通りの空を遮るのは、東の先に緑を茂らせる岩村城跡だけになった。

1 城下町の風情を残す岩村の町。散策も楽しい。 2 町家の建物を活かしたゲストハウスなども新しくでき活気づいている。 3 本町通界隈には、建物内や庭を見学できる商家や町家などが多数。

人のパワーを感じるまちだ。

観光地である前に、人が暮らすまちとして現役で機能しているからだろうか。

「ここは、人があったかくてね。妻は犬の散歩に出かけると、ちょっとちょっと!と呼び止められて、野菜を携えて帰ってきます」。

外から移住・定住する人からも暮らしやすいと評判だ。最近ではゲストハウスもいくつかお目見えした。新しい町屋民宿について尋ねると、「あの建物は、おじいちゃんが自分の住まいにしようと時間とお金をかけてつくったらしいんだけどね。ゲストハウスにしちゃうって言ってねえ」と、やっぱり詳しい渡會さん。いろんな住民団体が活発なこのまちで、町おこしの活動に勤しんでいる。

仕込み水を味わえる水場、沢ガニが姿を見せてくれた。

「このまちには、前向きにやろうとすることに文句を言う人が少ないんです。野党がいない。会議はレジュメ2、3枚にまとめて、パパッと決めちゃう」。会議のあとは居酒屋へ。酒の席では、やっぱりビールや焼酎が強い。そんな時、もっと酒が飲まれるようになってほしいと渡會さんは望んでいる。

海外へ売り込みに出かける理由も、「うちの酒が海外でも売れているとなったら、地元の人も目を向けてくれるでしょう。さらにもっと、岩村で愛されて飲まれる酒でありたいんです」と、まちのほうを向いている。

4 岩村城跡の本丸跡からの景色が気持ちいい。ちょっとした山登りに。また、途中まで車で行くことも。 5「昇竜の井戸」。水が枯れることがなかったと言われている。 6 立派な石垣は今も健在。

岩村醸造の歴史は、今年でちょうど230年。

メインブランド「女城主」は、岩村城の築城800年を記念してつくった酒だ。

女城主とは、その岩村城を守り、波乱の人生を送った戦国時代のヒロインのこと。岩村城跡の本丸跡へと登ると、四方の景色を一望することができる。敵が攻めてきた時、城内秘蔵の蛇骨を投じると、たちまち霧が城を包んで守ったという伝説の井戸もある。幻想的な場所だ。

岩村醸造の店舗奥では、岩村城が廃城となった後に売りに出された城の床板を見ることができる。

江戸時代からの建物にしっくり馴染んで、同じ時を重ねてきた。その前のたたきには、奥へ向かって約100メートルのレールが走っている。国道ができる前までは山のふもとまで続いていた蔵から酒の荷を運んだトロッコ用の線路だ。明治初期からあるなら日本製ではなくイギリス製だろうと、その道に詳しい人は言う。子ども時代の渡會さんには、絶好の遊び道具でもあった。

「友だちと乗ってはガーッと走らせて、止まり切れずに表のガラス戸をガシャーンと突き破って道まで飛び出してね。何度やったかわかりません」。でも、幼いながらに、このトロッコは大事なもので、絶対に遺していかなければならないと理解していたそうだ。

25年ほど前まで現役で酒の荷を運んでいたトロッコは、展示用にこそなったが健在だ。

荷運びで活躍したトロッコは、今はシンボルとして店内で活躍中。

渡會さんは、大きくなったら酒蔵を継ぐんだよと言われて育った。

将来の夢を、「跡継ぎ」と書いてしまう子どもだった。

順調に農業大学へ進学したが、大学生活では自転車競技に本気で取り組み、プロライダーに。

「もう帰らん!」と決心したこともあったそうだ。ところが、心配したご両親のはからいで愛知県の酒蔵へ修行に入ってみたら、すっかり酒造りに夢中になってしまった。

仕込みタンクの中は、ふつふつと発酵中。

「自分たちのつくった酒が世に出て、それをおいしいと言ってくれる人がいる。魅力ある仕事だと気づいたんですね。もともと、コツコツものをつくることが好きだったこともあります」。
それで、蔵を継いだ現在がある。蔵の酒造りは今、渡會さんが出来上がりのイメージを伝え、杜氏がそれを酒という作品にするスタイルで進められている。
「自分がつくった酒だと、大事にし過ぎて、どこにも売れなくなっちゃう。それじゃ商売にならんでしょう」。
好きだから、今は揺るがない。まちのことも、好きだから自分のことのように考える。渡會さんのようなパワフルな住人たちに支えられて、城下町は今日もいきいきと前向きだ。

岩村醸造 株式会社

創業以来230年、「玲瓏馥郁(れいろうふくいく)」を信条にした酒造りを続ける。玲瓏とは、透き通るように美しく輝くこと、馥郁とは良い香りが漂うという意味。熟練した杜氏による手作業の酒造りと、地元の岐阜県産米にこだわる。
敷地内の井戸から汲み上げた、岐阜県名水50選の地下水を使用し、穀物と水の相性を大切に考え造る。
メインブランド「女城主」のほか、それ以前からの銘柄「ゑなのほまれ」などがある。

岐阜県恵那市岩村町342番地
℡: 0573-43-2029

#02

 山の上の空に鯨を見たロマンを、
 この先もずっと。

恵那醸造 株式会社

長瀬 裕彦 さん  川出 和希 さん

 林を抜けて、どんどん山道へ。民家もまばらになった坂道のヘアピンカーブをくるりと回ると、「地酒蔵元 鯨波」と掲げた酒蔵が現れる。恵那醸造福岡工場は、山肌と言っていい場所にある。蔵の入り口に立つと、目の前は遠くの山と近くの山。あいだに空が広がる。すぐ下には立派な棚田としだれ梅が見える。ここで明治時代、酒蔵を営む長瀬家の当主は、山の上を流れる雲に、優雅に泳ぐ鯨の姿を見た。現在の当主で、酒造りをはじめてから7代目の長瀬裕彦さんは、当時に思いを巡らせる。「雲のカタチが、鯨に似ていたらしいんです。こんな山の中だから、海は憧れだったんでしょう」。それにしても、鯨雲ではなく、鯨波と名付けたセンスには唸ってしまう。長瀬家からは、花王の創業者である長瀬富郎も輩出した。ロマンある家系だ。

1 酒蔵の目の前の景色。「鯨波」と名付けたきっかけになった雲を、ここに見たのだろう。 2 煙突から吹き出る湯気が酒造りのはじまりを知らせる。

「うちはずっと農家で、昔は庄屋みたいなことをしていたらしいです。酒造株を買い取って酒造りをはじめ、遠山藩の苗木城に酒を納めるようになったと伝わっています」。その頃、酒に銘柄というものがあったかどうかは定かでないらしいが、そんな経緯で蔵には『殿待』というブランドができた。殿様が待っていた酒。こちらもロマンがある。

鯨とレトロな看板に心惹かれる。

ちなみに、銘柄は全部で3つあり、もうひとつがいちばん古くからある「二ツ森山」だ。二ツ森山は、蔵からは方角的にうまく見えないが、頂のきれいな三角が双子のように並んだ山。酒造りで使う水は、その二ツ森山の伏流水である。裏の山奥から湧き出る水を、ホースで大きな水槽まで引っ張ってくる。水槽には、上部に砂利、下になるにつれて大きな石が順に入っていて、水はきれいにろ過される。豊かな水は、酒造りだけでなく、生活用水としても利用されてきた。いちばん高い位置に水槽があり、まずは、すぐ下の酒蔵で仕込みや洗い物に使う。次に母屋で、煮炊きなどに。最後は、さらに下にある鯉が泳ぐ池や小川へ。坂を生かして、自然水を効率よく使えるように考えられた昔ながらの構造だ。梁が見事な母屋のショップでは、湧き続ける水がタンクに溢れないようにと、蛇口から流しっぱなしになっている様子が見られる。

3・4 酒造り、生活などのために使われた水が最後に流れ込む池。鯉が悠々と泳ぐ。初春にはしだれ梅が咲き誇る。 5・6 酒造りの準備が着々と進む10月の中頃 7 タイル敷きの流し台がかわいい売店の一角。

手づくりを貫くこの酒蔵では、酒米を10キログラムごとに袋で小分けして洗う。1トン分だと100回やらなければならない面倒な作業だが、丁寧に洗うことで味がきれいになるという。こうした、ちいさな蔵にしかできない手間のかかる酒造りを、長瀬さんは大切にしている。この冬には、もうほとんどつくっていなかった「殿待」を仕込む予定だ。きれいな味わいの新しい殿待として復活する。「最近、苗木城跡の人気が高まっていると聞いて。歩いて登ると結構大変ですけど、眺めのよいところですよね」。城はもう石垣だけになり、もちろん殿様もいないが、往時の物語を酒が伝えてくれる。

名前の通り見事な姿を見せる二ツ森山。

今、蔵で働くのは、奥さんと甥御さんと2人のアルバイト。長瀬さんは、一度家を出て東京で働いていたが、33歳で戻って、あらためて酒造りを学んだ。修行が大変だったのではと尋ねると、「当時は、酒造りの時期に杜氏が来ていたので直接学べたし、いまどきは、醸造協会や杜氏組合が主催する泊りがけの研修もあるんですよ」と、苦労は見せない。そんな長瀬さんの大切な跡継ぎが、甥の川出和希さんだ。彼にとって、この蔵はおばあちゃんの家であり、お盆や年末年始に遊びに来るのが楽しみな場所だった。「そもそも酒造りには興味があったんです。それに、この家系に生まれたからこそ、できることですし。親戚を見回しても同年代の男子は僕しかいないので、いつかこうなるだろうとも思っていました」と、積極的に運命を受け入れた。電気電子工学科で学び、大手メーカーで9年働いた経験を生かして、ちょっとした作業に便利な道具を自作するなど、ひとつずつ、できることからはじめている。長瀬さんも、「今はまだ勉強中だけど、時間をかけて酒造りを覚えていけば自分の色が出てくる。そうしたら好きなことをやっていけばいい」と、目を細める。開蔵200年を迎えるにあたって将来のことは後継者にまかせられるという安心感ができたという。7代目から8代目へ。山の空に鯨を見た一族のロマンは、こうして受け継がれていく。

恵那醸造 株式会社

創業1818年(文政元年)。家族を中心にした手づくりがモットーの酒蔵。主に岐阜県内産の酒造好適米ひだほまれを使用し、バランスよく濃潤な「旨口」を引き出す。岐阜酵母での純米酒造りを得意とし、純米吟醸、純米、本醸造、普通酒が基本のラインナップ。春には無濾過生原酒、秋にはひやおろしなど、限定商品のリリースも。仕上がったばかりの純米酒に地元の梅を漬け込んだ「くじら梅酒」もある。

岐阜県中津川市福岡2992-1
℡: 0573-72-2055

#03

 変わるものと変わらないもの。
 山あいの営みと酒造りの気概。

有限会社 大橋酒造

大橋 豊尚 さん

石積みの棚田が連なり、のどかな風景が広がる中津川市蛭川。銘酒『笠置鶴』の蔵元である大橋酒造は、100年以上に渡ってこの山あいの暮らしを見つめ続けてきた。「明治41年に初代がこの地ではじめたのは、山の資材を扱う仕事だったんです。その時代の屋号が、「ヤマ大 橋本屋商店」。だから、“酒蔵の壁に刻まれた印の由来を教えてくれたのは、5代目蔵主の大橋豊尚さん。この蔵や酒造りの器材は、近隣の酒蔵が商いをたたむ際に初代が丸ごと引きとったもの。大橋酒造のルーツだ。母屋には、また別の歴史がある。戦国時代から続く旧家のお屋敷を3分の1移築して建てられた。他に2軒の家ができたというのだから、元は相当な大きさだ。分厚い梁と十畳の続き間が先祖の暮らしぶりを伝えるこの場所は、大橋さんが子どもの頃から変わっていない。

1 笠置山を望む田園風景。 2 笠置山と縁起のいい「鶴」を合わせて「笠置鶴」と名付けた。 3 屋敷の壁面にある印は「ヤマ大 橋本屋商店」の名残。

酒造りに使う水も、ずっとここの地下水を使っている。「 “みかげ地下水”と呼んでいます。蛭川は、蛭川みかげ石とか蛭川石と呼ばれる花崗岩の産地で、地盤が良いんです。この辺りの昔ながらの日本家屋の庭にはどこも蛭川石があるはずですよ。ほら、これも蛭川石」と、指された先を見ると、店内の足元にも大きな踏み石が。

大橋酒造のわきを流れる柏ヶ根川は大橋さんが幼いころの遊び場。

そういえば、ここへ来るまでの間にも石屋や石の集積場をいくつか見かけた。道端には、石のアートもちらほら。ここ大橋酒造の裏手、希少な自生木として知られるヒトツバタゴの根元にもある。

以前は、目の前の通りを上がっていくと鉱山があり、この場所は働く人などで賑わう商店街だった。大橋さんが子どもの頃までは、お隣はパチンコ店などもあり、寿司屋や肉屋などの店が並んでいたという。信号のない山の街道を道しるべのように彩る樹々と蛭川石。空の先には、笠のようにきれいな三角の笠置山。大橋酒造のすぐ脇には、いつの時代も寄り添うように柏ヶ根川が流れている。昔は淵があったそうだ。「学校が終わると、そのまま川に入って家を通り越して、ずうっと上の方まで行っちゃう。秋は山へ行きゃ、柿やら栗やらおいしいものがなっとるでしょ。家に帰ってきやしない」。自然との距離が近い暮らしだ。

4 目の前の通りはかつて商店街でにぎわった。 5・6 多様なラインナップの笠置鶴 7・8 ほど近くにある安弘見神社境内には「杵振り踊り」が描かれた絵馬。 9・10・11 蛭川地歌舞伎の芝居小屋「蛭子座」。御園座を模した外観で3階建て。

通りを少し西へ歩くと、安弘見神社がある。ここで毎年4月に開催される蛭川杵振り祭りは、ちょっと見ものだ。奉納される杵振り踊りは、岐阜県の指定重要無形民俗文化財。この杵振り踊りに参加できるのは、地元出身の青年と決まっている。指でクルクルと杵を回す独特の振り付けは、付け焼刃ではできないからだ。踊りは代々伝えられ、蛭川の小学生・中学生はみんな学校で習うという。祭りの日は、地歌舞伎の芝居小屋「蛭子座」で衣装を整え、踊り子は赤・黄・青の市松模様の臼をかたどった大きな笠をかぶって鬼や獅子舞、太鼓などとともに中心街を出発。2キロの道中を練り歩く。途中で数回の休みを挟むのが通常で、大橋酒造も休憩地のひとつだ。

「昔は何もなかったから、祭りは楽しみでしたよ。食べ物だって、山のご馳走と言えば、ヘボ*やツグミ*でした。今はもう猟が禁止されていますが、親父の時代までは、おいしいものが手に入ったから酒を飲もうやと集まったものです」。山あいの暮らしで、いちばん大きく変わったのは食文化なのかもしれない。時代とともに地域の文化が途絶えていくことを、大橋さんは心配している。

*ヘボ:地中に巣をつくるクロススメバチ。昔の山間部において、貴重なたんぱく源だった。「ヘボ追い」で見つけた巣を持ち帰り、木箱に入れて数ヶ月育て、主に幼虫を甘露煮や炊き込みご飯にして食す。 *ツグミ:冬の渡り鳥。山の稜線沿いに鳥屋と呼ばれる小屋をつくり、かすみ網を仕掛けて、渡ってくる群れを捕らえた。冬に作物がとれない山間部の食文化だったが、現在は一部の特区を除いて全面的に禁止されている。


「日本人は日本のいいところを捨ててばかりでしょう。伝承もなくなってきている。だからね、日本酒なんて言い方を私はしません。わざわざ日本と断らなくても酒は酒。酒か清酒としか呼ばない。それが、酒をつくる者としての気概です」。せめて自分はこの地で酒造りを実直に守っていくと語る大橋さんに、なんでもコツコツ真面目にやり遂げるという蛭川の土地柄そのものを見た。

有限会社 大橋酒造

メインブランドは、「笠置鶴」。「端麗美人型」と称する味わいと、あたたかみがあり、飲むとほっとする本物の地酒づくりをめざす。岐阜県奨励品種に登録されたばかりの酒造好適米「ひだほまれ」の契約栽培を当時いち早く採用。専門用語で「だれる」と表現される、ひだほまれ特有の旨味の乗りを引き出している。通年酒、季節酒、新米新酒の他に、「枇杷の食前酢」などの新商品開発にも取り組む。

岐阜県中津川市蛭川中切区1119番地1-1-2
℡: 0573-45-2018

#04

 連綿と続く美濃焼のまち駄知で、
 静かに熱く技をつなぐ。

千古乃岩酒造 株式会社

中島 大蔵 さん

美濃焼の産地のひとつ、土岐市のなかでも、駄知町はどんぶりのまちとして知られる。「この辺りは、得意なやきものごとに、まちの特性が分かれているんです。駄知は、すり鉢とどんぶり、下石は、とっくり、さかずきは多治見の市之倉。とっくりみたいな袋ものは、また違う技術が必要なんですよね」と、千古乃岩酒造4代目の中島大蔵さんは、やきものにちょっと詳しい。聞けば、やきもの関係の仕事に就くご友人が多いとのこと。「僕自身は一度も焼いたことないですけど」と、語るが、美濃焼の繊細な酒器と日本酒のセットを開発するなどして、蔵の商品にこのまちらしさを取り入れている。

千古乃岩酒造のある駄知町の風景。窯業で活躍した煙突は今、14本だけ残る。

千古乃岩酒造の名は、町境にある稚児岩大橋の下から顔を出す巨岩、稚児岩の名にあやかっている。稚児の字は、千年のめでたさを願って、永遠を意味する千古に置き換えた。明治42年の創業で、創業後2代は味噌や醤油を醸造していたという。そんな蔵の酒造りは、後味のキレと味わいをじっくり引き出すことがモットー。中島さんが、「うちは麹のつくり方が全然違うんで」と、オリジナルの超醇製法について説明してくれる。麹室の温度差と製麹時間を大幅に変えて、後味のキレを引き出しているという。

街道を走っていると突如として現れる巨岩「稚児岩」。

さらに詳しい説明を求めると、「マニアックになっちゃうんですけど」と前置きしながら、「うちのは酸性プロテアーゼが少ないんですよね。タンパク質分解酵素で酸性プロテアーゼっていう酵素があるんですけど、その酵素をつくる温度帯の幅が35℃から38℃。その温度帯を早く通過させるためには前緩後急型で…」と、聞きなれない専門用語がぽんぽん飛び出してきた。確かにマニアックだ。全然わからないと降参する。

1 青色が映える「千古乃岩」のはっぴ。 2 大きな仕込みタンクへは板を渡した足場をつたって。 3 ちょうど仕込みがはじまった頃の中の様子。

中島さんは、東京農業大学で醸造学を学び、卒業してからも研究室で副手をしながら、さらに1年半かけて論文を書き上げた人だ。「結構おもしろかったんで」と、淡々と語るが、この様子ではかなり熱心に取り組んだのではないだろうか。酒米に関しても、日本の棚田百選のひとつ、恵那市の坂折棚田で契約栽培し、「棚田米仕込み」を商品化するなど意欲的だ。海外への進出もはじめた。「海外へは後発組なので、少しだけです」とのことだが、アジア圏への販売ルートをいくつか確保している。ちょっとクールな中島さんの熱い一面は、仕事ぶりに現れている。

元・東濃鉄道駄知線の駄知駅。現在はバスターミナルに。

秋口のこの日は、すでに今年の仕込みがはじまっていた。酒蔵は、大正時代からの趣ある建物だ。黒い壁に、道端の真っ赤な旧式ポストが映える。どうやら珍しい型らしく、ポストマニアに受けが良いそうだ。珍しいといえば、蔵の裏口を出てすぐのバスターミナルを経営する東濃鉄道は、「鉄道のない鉄道会社」と言われる。この場所は、元は東濃鉄道駄知線の駄知駅だった。駄知線は、陶磁器製品を東京方面へ運ぶルートとして、大正時代に開通した。地域の人びとの交通手段でもあったが、昭和49年に廃線となった。廃線後に生まれた中島さんにとって、解体前の駅舎は遊び場だったという。「まちができた後に駄知線ができたから、うちも駅側が裏口なんですよ」と中島さん。メインストリートである本町商店街も、駅より歴史が古く、東側に一本離れた場所にある。駅を中心としたまちなみは生まれなかった様子だ。

「駄知線については、父に語らせると詳しいんですけどね。廃線記念に線路を輪切りにして配ったものが、うちにもあるんで」。お父さんは、すでに中島さんに代を譲っているが、親子はともに地域の活動に力を入れている。薪能を開催している神社があると聞きつけたので尋ねてみると、「白山神社ですね。駄知小売商組合が主催していて、父が理事長です」と、返ってきて驚いた。資金を貯めて数年に一度、まちの人のために開催しているそうだ。組み立て式の能舞台も、あつらえた。準備に手間がかかりそうだが、「簡単ですよ」と、気負いがない。それより、江戸時代からある陶製の狛犬のほうが心配だと、地域の宝を思いやる。白山神社には、大きな陶祖碑もある。

4・5 白山神社にある陶器の狛犬。奥に進まないとお目にかかれない。 6 駄知町と書かれた大きな通い徳利。

高台にある神社までは、坂の途中でたくさんの窯を通り過ぎた。規模や種類を問わず、窯業関連の企業が次から次へと現れる。陶磁器のまちだとは知っていたが、これほどまでとは思わなかった。窯も蔵も、先人の技術をつないで現役ばりばりだ。中島さんのように、静かに熱いものをたたえた、たくさんのプロフェッショナルが支えているのだろう。

千古乃岩酒造 株式会社

仕込み水は、超軟水の三国山系伏流水。食事に合うすっきりした味をめざし、香りが華やかすぎない伝統型酵母を使用。越後杜氏伝承の技を受け継ぎ、キレがあり、さわやかな酒を醸造する。バリエーション豊かな「千古乃岩」ブランドと、美濃焼とのセット「hanasaka」、サイダーや甘酒などがある。酒瓶のラベルは、地元の芸術家である安藤實氏の書や下総しげお氏のイラストなどが飾り、オリジナルラベルの受注もしている。

岐阜県土岐市駄知町2177-1
℡: 0572-59-8014

#05

 屏風山で磨かれた水が、
 まちを潤し、酒を醸し、人を育てた。

中島醸造 株式会社

中島 修生 さん

 瑞浪市土岐町で300年以上酒造りを続ける中島醸造は、川なしには語れない。土岐川沿いから歩いて蔵を紹介してくれたのは、中島修生さん。14代目蔵主のお兄さんを杜氏として支え、現在は、平成14年に立ち上げた新しいブランド「小左衛門」の展開に力を入れる。「先祖は、岩村藩からこの地の統治を任された一族でした。開墾を進めて田をつくり、豊作の年にはじめたのが酒造り。昔は、豊作だと全国的に酒屋がわっと生まれる波があったらしいです。元禄時代も第三次くらいのピークで、うちは元禄15年のことでした」。

1 瑞浪、土岐、多治見のまちなかを流れる土岐川。朝もやのかかる屏風山もきれいに見える。 2 歴史感じる木の扉には「しろく」(始禄)の文字。 3 銀行を営んでいたというモダンな洋館。

土岐橋のたもとにある古い洋館へ案内してもらう。明治から昭和初期にかけて、中島醸造が銀行を営んでいた名残だ。隣には、焼酎をつくっていた昔の蒸留棟がある。対岸からもひと際目を引くシンボリックな木造5階建の黒壁に、初代からの銘柄「始禄」の名を掲げて川面を見下ろしている。「この川沿いは気持ちがいいでしょう。僕が学生時代は、もっと自然豊かでした。ビルなんてなかったし、土岐川には砂地があって水も透明だった。目を開けて泳げたんですよ。“にわかハワイ”みたいだったなあ」と、懐かしむ。

かたち違いの美濃焼の酒器と「小左衛門」と書かれたとっくり。

土岐川を離れて中島醸造をぐるりと囲む塀に沿って歩き、立派な杉玉のかかった門に出ると、こちらでも水の流れる涼しげな音。まちを走る水路だ。もともとは、米づくりのために引かれたものらしい。水路は、中島醸造のなかも通り抜けていく。敷地内では小さな流れだが、「市役所から請求書が届いて。何かと思ったら、河川の占用料なんです」なんてエピソードが、れっきとした河川であることを証明している。「昔は、この小川の力で精米していたようで、バラした水車が3台分あります」。その一部は本棚となって、蔵の試飲コーナーを飾っている。一方、酒の仕込み水は井戸水。屏風山の伏流水だ。50年前に山で降った雨が、ゆっくりふもとまで降りてくる。酒造りは、この水なしにはできない。

たわわに銀杏の実をつける大イチョウ。

豊かな水は、この地の米と、酒と、中島醸造そのものを育ててきた。樹齢400年と言われる大イチョウは、今年も銀杏をどっさり実らせた。小川の流水でじゃぶじゃぶ洗い、従業員のみんなで分ける。門を入ってすぐの中庭には、大きなエノキが枝を広げていた。この木は2代目。一度は伊勢湾台風で倒れてしまったけれど、次の代がもうここまで育ったのだという。「門の前は、昔の下街道にあたる道で、エノキは一里塚として植えられたシンボルツリーでした。面する棟はその昔、桶職人が暮らした長屋です。酒造りをしない夏場につくった桶を中庭にズラリと並べていたそうです。大きな枝が日陰をつくって、ちょうどよかったみたいですよ」。中庭は、毎年春に開かれる新酒お披露目会で試飲を楽しむ会場になる。木漏れ日が爽やかな頃だ。大きな枝から、鳥のさえずりが降ってくる。変わらない風景は、自然がつくっている。

土岐橋のたもとには、堂々と「始禄」の名を掲げる木造5階建の建物が鎮座。

中島さんは、この土地の自然に親しんで育った。「子どもの頃はよく櫻堂薬師まで歩いて行って、池でザリガニ釣りをして遊びました。今でこそ、歴史ある古刹として見直されているけど、当時、そんな意識はなかったですね。大型スーパーができてすっかり住宅地になっている瑞浪バイパス辺りには、まだ防空壕が残っていて秘密基地にしていたな」。やんちゃな少年は大人になり、酒造りは自分を育ててくれた大地の延長線上にあると考えるようになった。

4 中島醸造の門をくぐると現れる大きなエノキの木。 5 中島さんが教えてくれた瑞浪の町を一望できるスポットからの風景。 6・7・8春になるとしだれ桜がきれいな櫻堂薬師では、歴史と迫力ある舞楽面が見られる。強面の像もインパクトあり。

「屏風山の奥が水の源流にあたるらしいんですが、山にたくさんある湿地が保水してくれているみたいなんです。大事にしたいなあって」。中島さんは今、プライベートで里づくりの活動に力を入れている。「瑞浪のいちばん端っこの緑豊かな場所で、少しずつ動きはじめました。地域の特性が生きる里をつくりたい」。活動に賛同して集まる人たちは、草ぼうぼうの休耕田を耕して有機栽培にトライしたり、荒れた山を伐採してきこりを気取ったりと楽しんでいる。廃業した窯からレンガをもらってきてピザ窯もつくったそうだ。頼もしい。屏風山から生まれる水は、この地の恵みを次へときちんとつなげる世代を育て、守られていくだろう。

中島醸造 株式会社

初代中島小左衛門が酒造りをはじめた元禄時代から続く「始禄」と、平成14年に生まれた「小左衛門」が看板銘柄。酒米それぞれの特性や酵母の違いによる幅広い商品バリエーションを展開する。食事とともに楽しめる酒をコンセプトとし、食欲を増進させたり、旨みを倍増させたりする「酸をもたせる」過程を大切にしている。毎年4・5月に数日開催される新酒お披露目会の詳細は、ホームページやDMなどで発表される。

岐阜県瑞浪市土岐町7181-1
℡: 0572-68-3151

#06

 中山道・中津川宿の昔と今をつなぐ
 恵那山と「恵那山」。

はざま酒造 株式会社

岩ヶ谷 雄之 さん

ゴンッという音が外で響き、はざま酒造の岩ヶ谷雄之さんは、「落ちたかな」と一言つぶやいて表へ出て行った。ここは、中山道69ヶ所の宿場町のなかでも、奈良・平安の時代からの交通の要所、中津川宿にあたる中津川市本町。はざま酒造は、中山道沿いで約200年にわたって造り酒屋を営んできた。

さて、落ちたのは通りすがりの車。落ちた先は、店先の水路である。「店の前は枡形といって道がクランクになっている上に水路がオープンになっていて、車がすれ違う時などにタイヤがはまることがあるんです。だいたい1日に1回。持ち上げるにはコツが要るので、いつも手伝いに行くんですよね。お礼にと酒を買いに来てくれるので、なんだか罠にかけているみたいで後ろめたいんですけれど」。

1・2 歴史を感じる中津川宿の町。はざま酒造の前でちょうど「枡形」になっている。まわりには商店や資料館、休憩所なども。

おそらくは、いつも通り鮮やかに手助けして、戻ってきた岩ヶ谷さんが、人の良い笑顔で教えてくれる。枡形というのは、敵が侵入してきても、まっすぐ攻め込むことができないようにつくられた宿場町ならではの道の形状だ。水路がオープンになっているのも、この宿場町らしさを留めたいとの意向があってのことらしい。

3 「うだつ」のあるはざま酒造のお屋敷。 4・5 仕込み水と同じ水がこんこんと湧き出る。 6 酒蔵の神棚はきりりとした印象。 7 削られて丸みを帯びた米。 8・9・10 昔のラベルや古い道具が展示されているギャラリー「酒游館」。

昔のまちなみと今の暮らしが交錯する宿場町で、はざま酒造の屋敷は「うだつ」のある家として紹介される。うだつは、隣家との境の壁を上に伸ばして小屋根をつけた仕様で、火事の延焼を防ぐ目的でつくられた。その家の裕福さを表すシンボルとして、「うだつのあがらない」の語源にもなった。「社長はうだつに詳しくて、話が長くなるんですよ」と、岩ヶ谷さんが笑う。はざま酒造を代々営む間家といえば、ここ中津川では尾張徳川家の御用商人として栄えた豪商として知られる。「同じ間家でも、ここは分家だと聞いています。本家は、中山道を中津川駅方面へ向かった先にある『間家大正の蔵』の方です」。とはいえ、酒造りをはじめたのは西暦1800年頃というから、相当な旧家だ。

恵那神社の本宮。

岩ヶ谷さんは、醸造と販売の責任を担い、蔵に泊まり込みで仕込みを統括している。蔵の案内もお手のものだ。桶のフタを利用した半円型のテーブルに、手際よく試飲の準備をしていく。展示コーナーあり、きき酒コーナーありの「酒游館」には、以前はびん詰をしていたという板間に昔の酒造道具が並ぶ。歴代の酒のラベルもたくさん額に飾られていた。

中山道・中津川宿にあたる中津川市本町にかまえる、はざま酒造

これから、はざま酒造は純米蔵をめざし、銘柄も「恵那山」一本に絞っていくという。石桶からなみなみと溢れているのは、酒の仕込み水と同じ地下水。恵那山の伏流水だ。恵那山と、酒の「恵那山」には、確かなつながりがある。霊山として知られる恵那山の頂には、恵那神社の奥宮があり、イザナギとイザナミが祀られている。ふもとにある本宮も、立派な夫婦杉に守られた由緒正しい神社だ。「『恵那山』がデビューする際、山の名を冠する許可を恵那神社に求めたそうです。すると、『恵那山の水にて醸す此の酒を酌みて我が世は楽しかりけり』という歌とともに、当時の宮司は使用を快諾してくれました。ほら、これです」。その歌は、酒の裏面ラベルに今も記されている。恵那神社とはその後も付き合いが続き、仕込みに入る前などのお祓いもお願いしているそうだ。店先の角には、石でできた恵那山への道標も立っている。何かと縁があるらしい。

四ツ目橋からは恵那山が一望できる。

恵那山がよく見えるまちなかのスポットがあると聞いて、中山道を中津川駅方面へ歩いた。古いまちなみを抜けると、四ツ目川にかかる四ツ目橋に出る。川の上流側に、きれいに恵那山が見えた。手前に前山、奥が恵那山。冬は頂に雪をいただいて、とても美しい。恵那山は、日本百名山でもあり、毎朝写真を撮るようなファンもいる人気の山だ。中山道を旅した人たちも、この山を見ながら歩いたことだろう。昔と今の宿場町の風景をつなぎとめる山。舌に刻まれる酒「恵那山」とともに、この中津川宿の造り酒屋の歴史をつないでいく。

はざま酒造 株式会社

中山道、中津川宿の造り酒屋として約200年の歴史を誇る。2015年から、ブランドを「恵那山」一本に絞り、純米酒を中心とした蔵をめざしている。特徴は、穏やかに香るフルーツのような吟醸香と、口当たりよく沸きたつような味わい。酒米の6割に大粒で甘さをしっかり表現する兵庫県産の山田錦を使用し、米の旨みを出している。蔵には、きき酒コーナーや酒造道具の展示などを楽しめる「酒游館」を併設する。

岐阜県中津川市本町4丁目1番51号
℡: 0573-65-4106

#07

 陶板なまこ壁の蔵の主が語る、
 タイルのまちの変遷。

株式会社 三千盛

水野 鉄治 さん

「笠原の近現代史は、タイル産業の歴史。もともとは飯茶碗の製造をしていた窯が、タイル製造に変わっていったんです。戦後は、タイル産業が発展しました」。明治時代に建てられた三千盛の応接室で、代表取締役の水野鉄治さんは、笠原町の地場産業である窯業の歴史を実に丁寧に紹介してくれた。安土桃山時代に瀬戸の陶工が戦乱を逃れて美濃へやってきたこと、茶碗製造が盛んだった頃のこと、高度経済成長期には集団就職で人がどんどん入ってきたことなど、まるで歴史の先生みたいに、なんでも知っている。

「僕は陶磁器がとても好きでアマチュアとして研究、収集をしていますが、タイルについては地元のことなのにあまり知りませんでした」。タイルについても本を読み解いて知識を蓄えた水野さんは、乾式や湿式などの製造法まで詳しい。まちに陶壁やモザイクタイルアートがたくさんあることにも、きちんと気を配っている。

1 笠原神明宮にある天馬の陶壁。社殿の左奥に進むと現れる。 2 水野さんお気に入りの一つ、タイルの共同組合の陶壁は、ドアを囲うようなデザイン。

「笠原神明宮の外壁には、天馬の陶壁があって。山内逸三さんという人がつくった見ごたえのあるものですよ。あと、ケーエスジーさん、つまりタイルの共同組合の建物の陶壁も好きですね。モダンでね」。水野さんは、おもむろに立ち上がって、窓から外を見せてくれる。「僕も、自分なりに使ってみたんですよ」。三千盛の製造庫は25年ほど前の建築時、本来なら黒の平瓦でつくるナマコ壁に、知り合いの陶芸家に焼いてもらった灰釉の陶板を使用した。風情ある落ち着いた外観だが、内部は水野さんの言う、「めざす酒をつくるためにもっとも望ましい設備」が揃えられて、酒造りが進んでいる。秋口の頃で、ちょうど仕込みがはじまったばかり。隣の精米棟では、24時間精米が続いている。県下ではもう自社で精米しない蔵がほとんどだと聞いたが、ここでは常時3台がフル稼働している。

3・4・5 日本建築が美しい建物ではお酒の販売も。 6・7 散歩や運動、通勤通学にと地元の人に愛される「陶彩の径」。桜など、季節の花木も楽しめる。

三千盛は、安永年間に初代・水野鉄治が開業した造り酒屋だ。以来、鉄治の名は、代々当主が名乗る。水野さんのお父さんは次男で高吉の名だったが、長男の5代目鐡弌さんが戦争で亡くなり、紆余曲折ののちに呼び戻されて跡を継いだという。もともとは教師だった。なるほど、と思う。それというのも、水野さんの酒造りに対する姿勢に、なんだか学術的な専門家という印象を受けたからだ。三千盛の酒は、辛口で知られる。主張し過ぎず、どんな料理とも合うように、原料処理、製麹、酵母、醗酵管理などにおいて、技術のかけ算を大切にしているという。水野さんにとって、「日本酒は化学」なのだが、食の満足度を高められてこそ、酒はその存在に価値を認められると考えている。妥協のない設備と係数管理、全工程での五感による官能的判断によって、めざす味わいを実現する。

大きく迫力があり、洒落た外観の三千盛の製造庫。日本建築の屋敷の向かいに位置する。ここだけの眺め。

水野さんは、この笠原で生まれ、大学時代を除いてこのまちで暮らしている。「昔は、笠原神明宮の参道にあたる辺りが笠原の中心部で、もっとお店もあったんですよ。タイルのはり場なんかもいっぱいあったね」。3年生まで通っていた小学校の跡には、多治見市に編入されるまで町役場があった。最近、新しいまちのシンボル、モザイクタイルミュージアムが誕生した場所だ。中学・高校時代には、東濃鉄道笠原線の始発に揺られて名古屋まで通った。笠原線は昭和53年に廃止されて、跡地は自転車歩行者専用道「陶彩の径」になっている。朝夕と、ウォーキングや散歩をする人が行き交い、愛されている場所だ。この道中の笠原川沿いにも、地域の小学生がつくったモザイクタイル作品が見られる。そう教えてくれる水野さんも、「めちゃくちゃ歩いとるよ」と言う身近な道だ。飲み会がある時には、多治見駅からここまで、陶彩の径を歩いて帰ってくるそうだ。「1時間半はかかるよ。だから、すごく健康。ほら」と、ムキムキのふくらはぎを見せてくれた。そんな健脚の水野さんから薦められた、笠原のまちを一望できるという笠原陶ヶ丘公園へ向かった。道に迷い、手前の小学校で尋ねると、「三千盛さんといえば、この笠原が誇る酒蔵ですね」と、若い先生はうれしそうに言って、公園の入り口まで案内してくれた。水野さんが子どもの頃は、河川が陶土で白く濁って、重油窯のにおいが煙突から流れてくる、陶器のまち独特の日常風景があったという。設備技術が進んだ今、高台の空気はきれいに澄み、遠くの山の頂に白い雪が見えた。

笠原陶ヶ丘公園で見つけた大きな陶壁。ほかにも陶器のモニュメントがたくさん。

株式会社 三千盛

創業は江戸時代中期の安永年間。甘口の全盛期にあっても辛口を貫き、「からくちの銘酒」として愛される。口当たりやわらかく、すっきりした飲みやすい味わいをめざす。メインブランドは、昭和初年に上級酒として生まれた「三千盛」。創業当時、商標として親しまれた「まる尾」も、銘柄として残る。「日本酒は化学」という当主のモットーにならって整備された蔵で、伝統的かつ体感的な酒造りを守り続ける。

岐阜県多治見市笠原町2919
℡: 0572-43-3181

#08

 青春時代から生き方として貫く
 酒造りと山里の暮らし。

山内酒造場

山内 總太郎 さん  山内 満由美 さん

山内酒造場の21代目当主、山内總太郎さんは、伝説の立役者だ。ここ中津川市の椛の湖畔で昭和44年から46年にかけて開催された全日本フォークジャンボリーの実行委員を務めた。椛の湖オートキャンプ場の資料コーナーでは、当時を振り返る特集や、40年後に復活した「’09中津川フォークジャンボリー」の発起人として取り上げられた記事を見ることができる。当時まだ原野だった湖畔で、ステージやトイレをすべて手づくりして開催した、日本初の大規模な野外コンサート。アメリカのウッドストック・フェスティバルより1週間早かったというのだから驚いてしまう。それなのに、「私たち地元の人間は、なるべく周囲に迷惑をかけないように交通整理をしていましたね」と、山内さんが言い、奥さんの満由美さんも、「下っ端やもんね。駐車場係ね」と同意する。伝説と持ち上げる周囲をよそに、山内さんたちは当時も今も冷静だ。

1 椛の湖オートキャンプ場のセンターハウス内には、全日本フォークジャンボリー関連の資料が展示されている。 2 酒蔵コンサートをおこなうフォークグループ「土着民」「我夢土下座」のCD。 3 干し芋や干し柿を手づくりする満由美さん。 4・5 「坂下歌舞伎」の子ども達の稽古の様子。

 「高度経済成長期、大量生産の時代に入っていく頃でした。今、値打ちがあるのは手づくりのものではないかと気づいたんです。お祭り騒ぎではなく、もっと地に足をつけて自分たちの思いを表出できるような取り組みをしたいって」。フォークジャンボリーの準備と並行して、ものづくりを中心とした活動を仲間たちとはじめた。子どもたちに向けた手づくりの影絵芝居は20年ほども続き、遠方からも求められて公演した。フィールドフォークという試みは、フォークソングの仲間たちとの酒蔵コンサート*に発展し、もう19回目を迎える。蔵に設けられたステージで、仲間たちの音楽と、そのCDを聴かせて発酵させた新酒を楽しむ会だ。200人ほどが集まり、外へあふれた人たちは、車庫のモニターに流れる映像と、満由美さんが陣頭指揮をとって仲間の女性陣とつくった料理にありつく。30種類以上ものメニューを用意するというから、酒蔵のおかみさんは大変だ。

「眺めが良いよ」と教えてもらい向かった椛の湖からは、恵那山も見えた。ツーリングで立ち寄る人の姿も。

酒蔵では、昭和57年までは新潟の豪雪地帯から杜氏が来ていたが、病気でリタイアを望まれ、現在は夫婦で酒造りを担っている。仕込み水は、山清水だ。鉄分が多い山を避けて、湧き水を引いている。水と米で純米酒だけをつくる蔵で、アルコールの分析や麹は、満由美さんの担当だ。「こまやかさが必要な酒造りは、女性の方が向いている」と、今では山内さんが全幅の信頼を寄せる杜氏だが、お嫁に来たての頃は、隠れて蔵へ通っていたという。「忙しい杜氏さんから、手が欲しいと呼ばれるわけ。でも、大きいおばあちゃん、私どもの祖母が、女は蔵なんか行くもんじゃないと言うもんで、こっそり手伝っていました。女性は不浄とされた時代でしたからね」。

敷地内を流れる山からの水。

夫婦はふたりとも、この地域の生まれだ。山内さんは、ここで蔵主を務めながら地歌舞伎の振り付けを担っていた祖父にあちらこちらへ連れていかれたと、幼少時代を振り返る。「昔は、それぞれの地域に歌舞伎小屋があって、そこで練習したんです。うちへも、口三味線の浄瑠璃や歌舞伎の稽古に役者が通ってくることがありました。地歌舞伎は、地域ぐるみの取り組みだったので、役者として出る人、裏方をやる人、稽古場として自宅の一部を提供する人、それぞれができる役割を果たすんです」。山内さんは今、地歌舞伎の保存会会長を務める。この日も、2週間後には子ども歌舞伎の定期公演を控えているからと、公民館へ出かけていった。

4・5 「坂下歌舞伎」の子ども達の稽古の様子。6 この地に住んで400年以上だという。 7 地歌舞伎やバザーの案内など。地域の活動も盛んに。 8 酒瓶に貼られたこの蔵らしい素朴なラベル。

蔵のある山道では、今年も小野櫻が花を咲かせる。山内さんの先祖が命をつないできた3代目の山桜だ。苗代にモミを撒くタイミングで満開になり、代々、稲作のはじまりを告げてきた。桜が粛々と務めを果たしてきたように、山内さんは蔵主で、冬は杜氏、夏は農家、地歌舞伎の活動に勤しむ。つい最近23年の活動の幕を閉じた、小学生に農業体験を提供する農業小学校でも事務局を務めてきた。大忙しだが、それが山内さんの言う、できる役割を果たすということなのだろう。先祖から受け継いだものを守り続けるために、地域の人は自分なりの役割を引き受けている。子ども歌舞伎の公演は、無事に成功を収めた。難しい立ち回りや言い回しを覚える以上に、小中学生にとっては意義あるチャレンジだったことだろう。彼らもまた、この里の文化をつないでいくという大役を果たしたのだ。

山内酒造場

阿寺断層から湧き出る清水と岐阜県産ひだほまれからつくる純米酒の蔵。酒は食事をおいしくいただくための脇役として、できるだけ料理の味を邪魔しないようにとの思いを込める。江戸時代からのブランド「小野櫻」をはじめ、「さくらさくら」「春一番地」などの春を意識した銘柄に、古酒などを加えた商品ラインナップ。仲間のフォークソングを聴かせて醸した酒を、友人の絵や版画を当主自らデザインしたラベルが飾る。

※ 現在、山内さんは一線から退き、地元中津川の酒屋「中山道大鋸」の大鋸伸行さんが製造と経営を引き継いでいます。

岐阜県岐阜県中津川市上野小野沢134番地1
℡: 0573-75-4417

#09

 変わる蔵主の仕事と、
 地域の仲間たちに支えられ愛される蔵。

若葉 株式会社

伊藤 勝介 さん

瑞浪市土岐町の下街道沿いには、歴史ある酒蔵が300メートル圏内に2軒ある。1軒は中島醸造、もうひとつが、ここ若葉だ。昭和以前の屋号は、井丸屋醸造だった。でも、古くからこの辺りに住む人たちは、また違った名前で呼んだ。「どちらも1700年代の元禄年間にできた酒屋ですが、中島醸造さんのほうが先にできたので、おばあちゃん世代よりさらにひとつふたつ上の世代は、あちらを酒屋、こちらを新酒屋と呼んでいたと聞いています」。新しいといっても、現蔵主の伊藤勝介さんは13代目にあたる。

1 理科の実験を思い起こす用具は、成分を分析するなど酒造りにおいて使う。 2 道具の天日干しは酒造りのはじまり。

そんな蔵の歴史を、伊藤さんは黒板に向かって、時折チョークで書き込みながら丁寧に話してくれている。ここは、普段は事務作業をしたり、酒の成分分析をしたりする部屋。流し台にたくさんのビーカーが並び、まるで理科室のよう。専門書が並ぶ壁の向こうは、すぐ酒蔵だ。

「乾きょうる?」。ふいに伊藤さんが屋外に向けて声をかけた。夏のように日差しの強い秋の一日、屋外では、酒造りに使う道具が天日干しの真っ最中だ。物干し竿には、麹を造る箱のスノコがカーテンのようにぶら下がっている。今年は悪天候が続いたので、今週はじまる仕込みに向けて大急ぎの作業だ。酒造りは、蔵主の伊藤さんと工場長が二人三脚でおこなっている。最盛期には、従業員や奥様、パートさんも参加する。「20年くらい前までは毎年、新潟から杜氏さんが来て、この隣の部屋などに半年間泊まり込みで酒造りをしていました。長岡市の大きな油揚げの名産地、栃尾という町から来てくれていたんです。でも、高齢でリタイアされることになり、後継者もいないので、20年ほど前からは自分たちでつくるようになりました」。時代が変わり、蔵元の仕事は変わった。伊藤さんは杜氏でもある。

川幅の広い土岐川に面して佇む若葉。

「今はお酒のバリエーションが増えてきたので、できあがったら昔と同じように、すぐにろ過や熱処理を済ませてタンクで貯蔵するものばかりではないんです。絞ったら冷蔵庫にしまって、生のまま順次、商品にしていく。酒の仕上がり後、さらに手をかけることがいろいろ増えました。うちの父や、その前の時代は、『よきにはからえ』みたいな感じで杜氏にまかせていましたけれど」。

中庭には、そんな近しい先代たちの古き良き日を伝えるものがある。伊藤さんのおじいさんが大工につくらせた酒樽小屋だ。「昔使っていた酒樽をひっくり返して使っています。真ん中に炉が切ってあって、電熱器で湯を沸かして酒が飲めるようになっているんです。春になると暑いし、夏は蚊などの虫が出るので、酒造りしている冬しか使えませんが、親父やじいさんはよく仲間内で一杯呑んでいましたよ」。自分の代では、冬は酒造りに忙しくて、そんなことはできないと苦笑する。

3 雰囲気あるまい。お酒の販売も。 4 古い酒樽を逆さにしてつくった酒樽小屋。 5 漆喰が空に映える。 6 目の覚めるような色合いの若葉のはっぴ。 7 土岐川沿いをほろ酔い気分で歩くと瑞浪駅へ到着。春には桜のトンネルが見もの。

そんな伊藤さんを支えるのが、仲間たちだ。毎年、2月と4月の蔵開きのうち、4月は、瀬戸にある赤津焼窯元の友人がつくった酒器で新酒を楽しむ会が開かれる。試飲コーナーは地元の幼なじみや息子たち、販売コーナーは、親戚や知り合いのおばちゃんが担当。受付は奥様のママ友だ。この地域は、代々この地に住んでいる人が多く、いっしょに幼稚園や小学校に通った仲間との付き合いがずっと続いているという。地域性の落差がほとんどなく、フランクなつきあいができる土地柄を、「いいところだと思いますよ。若葉の原点です」と評して、感謝している。瑞浪駅周辺で、地酒として取り扱ってくれる居酒屋も多い。今以上に地域に愛される酒をつくりたいと思う。

4月には、ちょうど、すぐ裏の堤防の桜が満開になる。蔵開きで試飲を楽しんだ、ほろ酔い気分の人たちは、桜がきれいな通称「さくらさくらの散歩道」を歩いて帰る。約500メートルにわたって、桜のトンネルが続く名所だ。もともとあった古い桜と、地元の団体が植えた新しい桜が混在する道。それは、さながら長い歴史に新しい時代が刻まれていく酒蔵を象徴するようだ。代々暮らすこのまちに、伊藤さんはしっかり根を下ろしている。

若葉 株式会社

メインブランドは、純米酒を中心とした「若葉」シリーズ。地元の氏族の名をもらった特別本醸造の「美濃源氏」、蔵から出てきた推定昭和初期頃のレトロなラベルが可愛らしい限定商品の「若葉 大いばり」など、商品バリエーション豊かに展開している。純米酒で漬け込んだ梅酒や冬季限定商品のしぼりたて生酒、純米にごり酒なども人気。味わいを強く、香りはあえて控え目に。口のなかでふわっと香りが広がる、切れのいい飲み口をめざす。

岐阜県瑞浪市土岐町7270-1
℡: 0572-68-3168