陶板なまこ壁の蔵の主が語る、タイルのまちの変遷。
株式会社 三千盛 代表取締役 水野 鉄治 さん
三千盛
代表銘柄:三千盛
創業は江戸時代中期の安永年間。甘口の全盛期にあっても辛口を貫き、「からくちの銘酒」として愛される。
口当たりやわらかく、すっきりした飲みやすい味わいをめざす。メインブランドは、昭和初年に上級酒として生まれた「三千盛」。創業当時、商標として親しまれた「まる尾」も、銘柄として残る。
「日本酒は化学」という当主のモットーにならって整備された蔵で、伝統的かつ体感的な酒造りを守り続ける。
「笠原の近現代史は、タイル産業の歴史。もともとは飯茶碗の製造をしていた窯が、タイル製造に変わっていったんです。戦後は、タイル産業が発展しました」。
明治時代に建てられた三千盛の応接室で、代表取締役の水野鉄治さんは、笠原町の地場産業である窯業の歴史を実に丁寧に紹介してくれた。安土桃山時代に瀬戸の陶工が戦乱を逃れて美濃へやってきたこと、茶碗製造が盛んだった頃のこと、高度経済成長期には集団就職で人がどんどん入ってきたことなど、まるで歴史の先生みたいに、なんでも知っている。
「僕は陶磁器がとても好きでアマチュアとして研究、収集をしていますが、タイルについては地元のことなのにあまり知りませんでした」。
タイルについても本を読み解いて知識を蓄えた水野さんは、乾式や湿式などの製造法まで詳しい。まちに陶壁やモザイクタイルアートがたくさんあることにも、きちんと気を配っている。
「笠原神明宮の外壁には、天馬の陶壁があって。山内逸三さんという人がつくった見ごたえのあるものですよ。あと、ケーエスジーさん、つまりタイルの共同組合の建物の陶壁も好きですね。モダンでね」。
水野さんは、おもむろに立ち上がって、窓から外を見せてくれる。
「僕も、自分なりに使ってみたんですよ」。
三千盛の製造庫は25年ほど前の建築時、本来なら黒の平瓦でつくるナマコ壁に、知り合いの陶芸家に焼いてもらった灰釉の陶板を使用した。
風情ある落ち着いた外観だが、内部は水野さんの言う、「めざす酒をつくるためにもっとも望ましい設備」が揃えられて、酒造りが進んでいる。
秋口の頃で、ちょうど仕込みがはじまったばかり。隣の精米棟では、24時間精米が続いている。県下ではもう自社で精米しない蔵がほとんどだと聞いたが、ここでは常時3台がフル稼働している。
三千盛は、安永年間に初代・水野鉄治が開業した造り酒屋だ。以来、鉄治の名は、代々当主が名乗る。
水野さんのお父さんは次男で高吉の名だったが、長男の5代目鐡弌さんが戦争で亡くなり、紆余曲折ののちに呼び戻されて跡を継いだという。
もともとは教師だった。なるほど、と思う。それというのも、水野さんの酒造りに対する姿勢に、なんだか学術的な専門家という印象を受けたからだ。三千盛の酒は、辛口で知られる。主張し過ぎず、どんな料理とも合うように、原料処理、製麹、酵母、醗酵管理などにおいて、技術のかけ算を大切にしているという。
水野さんにとって、「日本酒は化学」なのだが、食の満足度を高められてこそ、酒はその存在に価値を認められると考えている。妥協のない設備と係数管理、全工程での五感による官能的判断によって、めざす味わいを実現する。
水野さんは、この笠原で生まれ、大学時代を除いてこのまちで暮らしている。
「昔は、笠原神明宮の参道にあたる辺りが笠原の中心部で、もっとお店もあったんですよ。タイルのはり場なんかもいっぱいあったね」。
3年生まで通っていた小学校の跡には、多治見市に編入されるまで町役場があった。最近、新しいまちのシンボル、モザイクタイルミュージアムが誕生した場所だ。中学・高校時代には、東濃鉄道笠原線の始発に揺られて名古屋まで通った。
笠原線は昭和53年に廃止されて、跡地は自転車歩行者専用道「陶彩の径」になっている。朝夕と、ウォーキングや散歩をする人が行き交い、愛されている場所だ。
この道中の笠原川沿いにも、地域の小学生がつくったモザイクタイル作品が見られる。そう教えてくれる水野さんも、「めちゃくちゃ歩いとるよ」と言う身近な道だ。飲み会がある時には、多治見駅からここまで、陶彩の径を歩いて帰ってくるそうだ。
「1時間半はかかるよ。だから、すごく健康。ほら」と、ムキムキのふくらはぎを見せてくれた。
そんな健脚の水野さんから薦められた、笠原のまちを一望できるという笠原陶ヶ丘公園へ向かった。
道に迷い、手前の小学校で尋ねると、「三千盛さんといえば、この笠原が誇る酒蔵ですね」と、若い先生はうれしそうに言って、公園の入り口まで案内してくれた。
水野さんが子どもの頃は、河川が陶土で白く濁って、重油窯のにおいが煙突から流れてくる、陶器のまち独特の日常風景があったという。
設備技術が進んだ今、高台の空気はきれいに澄み、遠くの山の頂に白い雪が見えた。
なお、誠に残念ながら水野鉄治さんは2024年に68歳の若さで逝去されました。現在は、7代目蔵元、水野鉄盛さんが継承し、三千盛を造り続けております。
連綿と続く美濃焼のまち駄知で、静かに熱く技をつなぐ。
千古乃岩酒造 株式会社 代表取締役 中島 大蔵 さん
千古乃岩酒造
代表銘柄:千古乃岩
仕込み水は、超軟水の三国山系伏流水。食事に合うすっきりした味をめざし、香りが華やかすぎない伝統型酵母を使用。越後杜氏伝承の技を受け継ぎ、キレがあり、さわやかな酒を醸造する。
バリエーション豊かな「千古乃岩」ブランドと、美濃焼とのセット「hanasaka」、サイダーや甘酒などがある。
酒瓶のラベルは、地元の芸術家である安藤實氏の書や下総しげお氏のイラストなどが飾り、オリジナルラベルの受注もしている。
美濃焼の産地のひとつ、土岐市のなかでも、駄知町はどんぶりのまちとして知られる。
「この辺りは、得意なやきものごとに、まちの特性が分かれているんです。駄知は、すり鉢とどんぶり、下石は、とっくり、さかずきは多治見の市之倉。とっくりみたいな袋ものは、また違う技術が必要なんですよね」と、千古乃岩酒造4代目の中島大蔵さんは、やきものにちょっと詳しい。
聞けば、やきもの関係の仕事に就くご友人が多いとのこと。
「僕自身は一度も焼いたことないですけど」と、語るが、美濃焼の繊細な酒器と日本酒のセットを開発するなどして、蔵の商品にこのまちらしさを取り入れている。
千古乃岩酒造の名は、町境にある稚児岩大橋の下から顔を出す巨岩、稚児岩の名にあやかっている。
稚児の字は、千年のめでたさを願って、永遠を意味する千古に置き換えた。
明治42年の創業で、創業後2代は味噌や醤油を醸造していたという。そんな蔵の酒造りは、後味のキレと味わいをじっくり引き出すことがモットー。
中島さんが、「うちは麹のつくり方が全然違うんで」と、オリジナルの超醇製法について説明してくれる。麹室の温度差と製麹時間を大幅に変えて、後味のキレを引き出しているという。
さらに詳しい説明を求めると、「マニアックになっちゃうんですけど」と前置きしながら、「うちのは酸性プロテアーゼが少ないんですよね。タンパク質分解酵素で酸性プロテアーゼっていう酵素があるんですけど、その酵素をつくる温度帯の幅が35℃から38℃。その温度帯を早く通過させるためには前緩後急型で…」と、聞きなれない専門用語がぽんぽん飛び出してきた。確かにマニアックだ。全然わからないと降参する。
中島さんは、東京農業大学で醸造学を学び、卒業してからも研究室で副手をしながら、さらに1年半かけて論文を書き上げた人だ。
「結構おもしろかったんで」と、淡々と語るが、この様子ではかなり熱心に取り組んだのではないだろうか。
酒米に関しても、日本の棚田百選のひとつ、恵那市の坂折棚田で契約栽培し、「棚田米仕込み」を商品化するなど意欲的だ。海外への進出もはじめた。
「海外へは後発組なので、少しだけです」とのことだが、アジア圏への販売ルートをいくつか確保している。ちょっとクールな中島さんの熱い一面は、仕事ぶりに現れている。
秋口のこの日は、すでに今年の仕込みがはじまっていた。
酒蔵は、大正時代からの趣ある建物だ。黒い壁に、道端の真っ赤な旧式ポストが映える。どうやら珍しい型らしく、ポストマニアに受けが良いそうだ。
珍しいといえば、蔵の裏口を出てすぐのバスターミナルを経営する東濃鉄道は、「鉄道のない鉄道会社」と言われる。この場所は、元は東濃鉄道駄知線の駄知駅だった。駄知線は、陶磁器製品を東京方面へ運ぶルートとして、大正時代に開通した。地域の人びとの交通手段でもあったが、昭和49年に廃線となった。廃線後に生まれた中島さんにとって、解体前の駅舎は遊び場だったという。
「まちができた後に駄知線ができたから、うちも駅側が裏口なんですよ」と中島さん。メインストリートである本町商店街も、駅より歴史が古く、東側に一本離れた場所にある。駅を中心としたまちなみは生まれなかった様子だ。
「駄知線については、父に語らせると詳しいんですけどね。廃線記念に線路を輪切りにして配ったものが、うちにもあるんで」。
お父さんは、すでに中島さんに代を譲っているが、親子はともに地域の活動に力を入れている。
薪能を開催している神社があると聞きつけたので尋ねてみると、「白山神社ですね。駄知小売商組合が主催していて、父が理事長です」と、返ってきて驚いた。資金を貯めて数年に一度、まちの人のために開催しているそうだ。組み立て式の能舞台も、あつらえた。準備に手間がかかりそうだが、「簡単ですよ」と、気負いがない。それより、江戸時代からある陶製の狛犬のほうが心配だと、地域の宝を思いやる。白山神社には、大きな陶祖碑もある。
高台にある神社までは、坂の途中でたくさんの窯を通り過ぎた。規模や種類を問わず、窯業関連の企業が次から次へと現れる。
陶磁器のまちだとは知っていたが、これほどまでとは思わなかった。窯も蔵も、先人の技術をつないで現役ばりばりだ。
中島さんのように、静かに熱いものをたたえた、たくさんのプロフェッショナルが支えているのだろう。
変わる蔵主の仕事と、地域の仲間たちに支えられ愛される蔵。
若葉 株式会社 代表取締役 伊藤 勝介 さん
若葉
代表銘柄:若葉、美濃源氏、大いばり
メインブランドは、純米酒を中心とした「若葉」シリーズ。地元の氏族の名をもらった特別本醸造の「美濃源氏」、蔵から出てきた推定昭和初期頃のレトロなラベルが可愛らしい限定商品の「若葉 大いばり」など、商品バリエーション豊かに展開している。
純米酒で漬け込んだ梅酒や冬季限定商品のしぼりたて生酒、純米にごり酒なども人気。
味わいを強く、香りはあえて控え目に。口のなかでふわっと香りが広がる、切れのいい飲み口をめざす。
瑞浪市土岐町の下街道沿いには、歴史ある酒蔵が300メートル圏内に2軒ある。1軒は中島醸造、もうひとつが、ここ若葉だ。
昭和以前の屋号は、井丸屋醸造だった。でも、古くからこの辺りに住む人たちは、また違った名前で呼んだ。
「どちらも1700年代の元禄年間にできた酒屋ですが、中島醸造さんのほうが先にできたので、おばあちゃん世代よりさらにひとつふたつ上の世代は、あちらを酒屋、こちらを新酒屋と呼んでいたと聞いています」。
新しいといっても、現蔵主の伊藤勝介さんは13代目にあたる。
そんな蔵の歴史を、伊藤さんは黒板に向かって、時折チョークで書き込みながら丁寧に話してくれている。
ここは、普段は事務作業をしたり、酒の成分分析をしたりする部屋。流し台にたくさんのビーカーが並び、まるで理科室のよう。専門書が並ぶ壁の向こうは、すぐ酒蔵だ。
「乾きょうる?」。
ふいに伊藤さんが屋外に向けて声をかけた。夏のように日差しの強い秋の一日、屋外では、酒造りに使う道具が天日干しの真っ最中だ。物干し竿には、麹を造る箱のスノコがカーテンのようにぶら下がっている。今年は悪天候が続いたので、今週はじまる仕込みに向けて大急ぎの作業だ。
酒造りは、蔵主の伊藤さんと工場長が二人三脚でおこなっている。最盛期には、従業員や奥様、パートさんも参加する。
「20年くらい前までは毎年、新潟から杜氏さんが来て、この隣の部屋などに半年間泊まり込みで酒造りをしていました。長岡市の大きな油揚げの名産地、栃尾という町から来てくれていたんです。でも、高齢でリタイアされることになり、後継者もいないので、20年ほど前からは自分たちでつくるようになりました」。
時代が変わり、蔵元の仕事は変わった。伊藤さんは杜氏でもある。
「今はお酒のバリエーションが増えてきたので、できあがったら昔と同じように、すぐにろ過や熱処理を済ませてタンクで貯蔵するものばかりではないんです。絞ったら冷蔵庫にしまって、生のまま順次、商品にしていく。酒の仕上がり後、さらに手をかけることがいろいろ増えました。うちの父や、その前の時代は、『よきにはからえ』みたいな感じで杜氏にまかせていましたけれど」。
中庭には、そんな近しい先代たちの古き良き日を伝えるものがある。伊藤さんのおじいさんが大工につくらせた酒樽小屋だ。
「昔使っていた酒樽をひっくり返して使っています。真ん中に炉が切ってあって、電熱器で湯を沸かして酒が飲めるようになっているんです。春になると暑いし、夏は蚊などの虫が出るので、酒造りしている冬しか使えませんが、親父やじいさんはよく仲間内で一杯呑んでいましたよ」。
自分の代では、冬は酒造りに忙しくて、そんなことはできないと苦笑する。
そんな伊藤さんを支えるのが、仲間たちだ。
毎年、2月と4月の蔵開きのうち、4月は、瀬戸にある赤津焼窯元の友人がつくった酒器で新酒を楽しむ会が開かれる。
試飲コーナーは地元の幼なじみや息子たち、販売コーナーは、親戚や知り合いのおばちゃんが担当。受付は奥様のママ友だ。
この地域は、代々この地に住んでいる人が多く、いっしょに幼稚園や小学校に通った仲間との付き合いがずっと続いているという。
地域性の落差がほとんどなく、フランクなつきあいができる土地柄を、「いいところだと思いますよ。若葉の原点です」と評して、感謝している。瑞浪駅周辺で、地酒として取り扱ってくれる居酒屋も多い。今以上に地域に愛される酒をつくりたいと思う。
4月には、ちょうど、すぐ裏の堤防の桜が満開になる。
蔵開きで試飲を楽しんだ、ほろ酔い気分の人たちは、桜がきれいな通称「さくらさくらの散歩道」を歩いて帰る。約500メートルにわたって、桜のトンネルが続く名所だ。もともとあった古い桜と、地元の団体が植えた新しい桜が混在する道。
それは、さながら長い歴史に新しい時代が刻まれていく酒蔵を象徴するようだ。代々暮らすこのまちに、伊藤さんはしっかり根を下ろしている。
屏風山で磨かれた水が、まちを潤し、酒を醸し、人を育てた。
中島醸造 株式会社 繋役 中島 修生 さん
中島醸造
代表銘柄:小左衛門、始禄
初代中島小左衛門が酒造りをはじめた元禄時代から続く「始禄」と、平成14年に生まれた「小左衛門」が看板銘柄。酒米それぞれの特性や酵母の違いによる幅広い商品バリエーションを展開する。
食事とともに楽しめる酒をコンセプトとし、食欲を増進させたり、旨みを倍増させたりする「酸をもたせる」過程を大切にしている。
毎年4・5月に数日開催される新酒お披露目会の詳細は、ホームページやDMなどで発表される。
瑞浪市土岐町で300年以上酒造りを続ける中島醸造は、川なしには語れない。
土岐川沿いから歩いて蔵を紹介してくれたのは、中島修生さん。14代目蔵主のお兄さんを杜氏として支え、現在は、平成14年に立ち上げた新しいブランド「小左衛門」の展開に力を入れる。
「先祖は、岩村藩からこの地の統治を任された一族でした。開墾を進めて田をつくり、豊作の年にはじめたのが酒造り。昔は、豊作だと全国的に酒屋がわっと生まれる波があったらしいです。元禄時代も第三次くらいのピークで、うちは元禄15年のことでした」。
土岐橋のたもとにある古い洋館へ案内してもらう。明治から昭和初期にかけて、中島醸造が銀行を営んでいた名残だ。
隣には、焼酎をつくっていた昔の蒸留棟がある。対岸からもひと際目を引くシンボリックな木造5階建の黒壁に、初代からの銘柄「始禄」の名を掲げて川面を見下ろしている。
「この川沿いは気持ちがいいでしょう。僕が学生時代は、もっと自然豊かでした。ビルなんてなかったし、土岐川には砂地があって水も透明だった。目を開けて泳げたんですよ。“にわかハワイ”みたいだったなあ」と、懐かしむ。
土岐川を離れて中島醸造をぐるりと囲む塀に沿って歩き、立派な杉玉のかかった門に出ると、こちらでも水の流れる涼しげな音。まちを走る水路だ。もともとは、米づくりのために引かれたものらしい。
水路は、中島醸造のなかも通り抜けていく。敷地内では小さな流れだが、「市役所から請求書が届いて。何かと思ったら、河川の占用料なんです」なんてエピソードが、れっきとした河川であることを証明している。
「昔は、この小川の力で精米していたようで、バラした水車が3台分あります」。
その一部は本棚となって、蔵の試飲コーナーを飾っている。
一方、酒の仕込み水は井戸水。屏風山の伏流水だ。50年前に山で降った雨が、ゆっくりふもとまで降りてくる。酒造りは、この水なしにはできない。
豊かな水は、この地の米と、酒と、中島醸造そのものを育ててきた。
樹齢400年と言われる大イチョウは、今年も銀杏をどっさり実らせた。小川の流水でじゃぶじゃぶ洗い、従業員のみんなで分ける。門を入ってすぐの中庭には、大きなエノキが枝を広げていた。この木は2代目。一度は伊勢湾台風で倒れてしまったけれど、次の代がもうここまで育ったのだという。
「門の前は、昔の下街道にあたる道で、エノキは一里塚として植えられたシンボルツリーでした。面する棟はその昔、桶職人が暮らした長屋です。酒造りをしない夏場につくった桶を中庭にズラリと並べていたそうです。大きな枝が日陰をつくって、ちょうどよかったみたいですよ」。
中庭は、毎年春に開かれる新酒お披露目会で試飲を楽しむ会場になる。木漏れ日が爽やかな頃だ。大きな枝から、鳥のさえずりが降ってくる。変わらない風景は、自然がつくっている。
中島さんは、この土地の自然に親しんで育った。
「子どもの頃はよく櫻堂薬師まで歩いて行って、池でザリガニ釣りをして遊びました。今でこそ、歴史ある古刹として見直されているけど、当時、そんな意識はなかったですね。大型スーパーができてすっかり住宅地になっている瑞浪バイパス辺りには、まだ防空壕が残っていて秘密基地にしていたな」。
やんちゃな少年は大人になり、酒造りは自分を育ててくれた大地の延長線上にあると考えるようになった。
「屏風山の奥が水の源流にあたるらしいんですが、山にたくさんある湿地が保水してくれているみたいなんです。大事にしたいなあって」。
中島さんは今、プライベートで里づくりの活動に力を入れている。
「瑞浪のいちばん端っこの緑豊かな場所で、少しずつ動きはじめました。地域の特性が生きる里をつくりたい」。
活動に賛同して集まる人たちは、草ぼうぼうの休耕田を耕して有機栽培にトライしたり、荒れた山を伐採してきこりを気取ったりと楽しんでいる。
廃業した窯からレンガをもらってきてピザ窯もつくったそうだ。頼もしい。屏風山から生まれる水は、この地の恵みを次へときちんとつなげる世代を育て、守られていくだろう。
自分ごととして考えるパワーが、城下町を輝かせる。
岩村醸造 株式会社 代表取締役社長 渡會 充晃 さん
岩村醸造
代表銘柄:女城主、ゑなのほまれ
創業以来230年、「玲瓏馥郁(れいろうふくいく)」を信条にした酒造りを続ける。
玲瓏とは、透き通るように美しく輝くこと、馥郁とは良い香りが漂うという意味。熟練した杜氏による手作業の酒造りと、地元の岐阜県産米にこだわる。
敷地内の井戸から汲み上げた、岐阜県名水50選の地下水を使用し、穀物と水の相性を大切に考え造る。
メインブランド「女城主」のほか、それ以前からの銘柄「ゑなのほまれ」などがある。
城下町の空は、意外にぽっかりと広かった。通りには古い建物がみっちりと軒を並べているのに、なぜだろう。
恵那市岩村町で7代続く岩村醸造の当主、渡會充晃さんは、まちのことに詳しい。
「昔は、この狭い場所に電柱や電線がすごくてね。でも、地中化するには予算が必要だから、国に働きかけようと何度もみんなで会議を重ねましたよ」。
その結果、平成10年に岩村町の城下町は文化庁の重要伝統的建造物群保存地区に選定。まちは念願の電柱地中化を叶えた。工事は家屋内にも欠かせない。住民の理解と協力があって、いまや通りの空を遮るのは、東の先に緑を茂らせる岩村城跡だけになった。
人のパワーを感じるまちだ。観光地である前に、人が暮らすまちとして現役で機能しているからだろうか。
「ここは、人があったかくてね。妻は犬の散歩に出かけると、ちょっとちょっと!と呼び止められて、野菜を携えて帰ってきます」。
外から移住・定住する人からも暮らしやすいと評判だ。最近ではゲストハウスもいくつかお目見えした。
新しい町屋民宿について尋ねると、「あの建物は、おじいちゃんが自分の住まいにしようと時間とお金をかけてつくったらしいんだけどね。ゲストハウスにしちゃうって言ってねえ」と、やっぱり詳しい渡會さん。
いろんな住民団体が活発なこのまちで、町おこしの活動に勤しんでいる。
「このまちには、前向きにやろうとすることに文句を言う人が少ないんです。野党がいない。会議はレジュメ2、3枚にまとめて、パパッと決めちゃう」。
会議のあとは居酒屋へ。酒の席では、やっぱりビールや焼酎が強い。そんな時、もっと酒が飲まれるようになってほしいと渡會さんは望んでいる。
海外へ売り込みに出かける理由も、「うちの酒が海外でも売れているとなったら、地元の人も目を向けてくれるでしょう。さらにもっと、岩村で愛されて飲まれる酒でありたいんです」と、まちのほうを向いている。
岩村醸造の歴史は、今年でちょうど230年。メインブランド「女城主」は、岩村城の築城800年を記念してつくった酒だ。
女城主とは、その岩村城を守り、波乱の人生を送った戦国時代のヒロインのこと。岩村城跡の本丸跡へと登ると、四方の景色を一望することができる。敵が攻めてきた時、城内秘蔵の蛇骨を投じると、たちまち霧が城を包んで守ったという伝説の井戸もある。幻想的な場所だ。
岩村醸造の店舗奥では、岩村城が廃城となった後に売りに出された城の床板を見ることができる。
江戸時代からの建物にしっくり馴染んで、同じ時を重ねてきた。その前のたたきには、奥へ向かって約100メートルのレールが走っている。国道ができる前までは山のふもとまで続いていた蔵から酒の荷を運んだトロッコ用の線路だ。明治初期からあるなら日本製ではなくイギリス製だろうと、その道に詳しい人は言う。
子ども時代の渡會さんには、絶好の遊び道具でもあった。
「友だちと乗ってはガーッと走らせて、止まり切れずに表のガラス戸をガシャーンと突き破って道まで飛び出してね。何度やったかわかりません」。
でも、幼いながらに、このトロッコは大事なもので、絶対に遺していかなければならないと理解していたそうだ。
25年ほど前まで現役で酒の荷を運んでいたトロッコは、展示用にこそなったが健在だ。
渡會さんは、大きくなったら酒蔵を継ぐんだよと言われて育った。
将来の夢を、「跡継ぎ」と書いてしまう子どもだった。順調に農業大学へ進学したが、大学生活では自転車競技に本気で取り組み、プロライダーに。
「もう帰らん!」と決心したこともあったそうだ。ところが、心配したご両親のはからいで愛知県の酒蔵へ修行に入ってみたら、すっかり酒造りに夢中になってしまった。
「自分たちのつくった酒が世に出て、それをおいしいと言ってくれる人がいる。魅力ある仕事だと気づいたんですね。もともと、コツコツものをつくることが好きだったこともあります」。
それで、蔵を継いだ現在がある。
蔵の酒造りは今、渡會さんが出来上がりのイメージを伝え、杜氏がそれを酒という作品にするスタイルで進められている。
「自分がつくった酒だと、大事にし過ぎて、どこにも売れなくなっちゃう。それじゃ商売にならんでしょう」。
好きだから、今は揺るがない。まちのことも、好きだから自分のことのように考える。
渡會さんのようなパワフルな住人たちに支えられて、城下町は今日もいきいきと前向きだ。